
もやむのサイト
― 奪われたものと、手にしたもの ――
それはいくらでもある。
人の悪意で、身勝手で私は沢山の普通を奪われて、沢山の傷を負った。
それでも、私は人がそれだけじゃないと知っていた。覚えていた。
私を支えてくれていた思い出がなくなっているのに気づいたのは、親類に保護されて数日たったある日だった――
「ねえ、クラヴィーアちゃん。ピアノはもう弾かないの?」
親戚は母の妹の夫婦とその子供、つまり従弟。遠い地で暮らしていたのに今回の件でこっちに来ることになって申し訳ない限りだ。
それなのに彼らは仕事は区切りをつけた。大丈夫だと。私の方こそ大丈夫かとひたすら心配する。
まぁ……多少は仕方ないと思う。なにせ無人島に装備もろくにないまま三日も行ってて帰ってきたら泥だらけだけならまだしも、脇腹にどう見ても怪我をした後の血がべっとり残ってたりしてたんだから。その上体中に殴られた痣を見られれば。あいつら……! と優しい一家の親戚までも怒りに燃え上がらせた。父よ、お人よし一家の血を持つ私達をここまで怒らせるとは相当だぞ。
それはそうと、私はピアノの前に立つ。
「……私ピアノ習ってましたっけ?」
貴族の嗜みで普通に考えればやるはずなんだが、全然覚えが浮かんでこない。
叔母さんはショックを受けたような顔をした。なんなんだ。
「そう、忘れちゃったのね……。小さな頃はお母さんとよく楽しそうに弾いていたのよ。……色々あったものね」
……そうだったのか。母との記憶は結構大事にしていたつもりなんだが。
ぼろぼろにされてる中での心の拠り所は母との記憶だったし。
「……っ!!」
そこで気づいた。
傷を治して貰った時感じたどうしようもない寂しさ。
胸の中から何かが奪われた感覚。
“それを失ったら、願いが叶っても意味がない”
……記憶は確かにそれと言える。どんなに焦がれた願いでもそれを求めた動機がなくなってしまえば意味がない。
私にとってピアノがなんだったのかわからない。目の前にしても特別な感情は浮かんでこない。記憶が消えるというのはそういう事だ。
それに伴った感情すら……消えてしまう。
「………アマミさん……」
小さく呟く。そうだったとしたら。
私は……なんてものを払って貰ったんだ。
今更ながら体が震えあがるのを止めれなかった――
『彼女の未来が平穏で明るいものになるように』
それがどこまで私の人生に影響しているのかわからない。
体中に残っていた痣や、家出してきたという言葉で私の人生が平穏でなかったのはわかる事だろう。
その願いは、どこまでも優しいもの。
私がどう願うか迷っていた、願うべきだった願いをあの人は簡単に言葉にして、形にしてくれた。
彼が自分で自分のことをどう思おうと、その行動はずっと優しかった。
お鍋やお水入れを貸してくれた。傷をみてくれただけじゃない。いかないで、とすがる手を振り払わなかった。背負ってくれた。――願ってくれた。
それ以上に……―――
「私は、己のなすべきことをなすことを放棄していました。
それは紛れもない事実。公平な判決を望みます」
聴取を受け、今まで自分が受けていた行為を語り尽くし、最後に私がいった言葉だ。
環境を理由に己の怠慢が許されるのは受け入れることは出来なかった。
私はただ人に助けて、と手をのばせばよかった。それだけでも変わっていた。
あの時まで言えなかったその言葉。やろうと思えてなかった思考。
そのツケの全ては領民に不利益でふりかかっていたんだ。
親戚は仕方なかった、そんな責任を感じなくていいと言ってくれたが決して甘える真似はしない。
そうしないと自分が許せない。
私が許せないのは相手だけじゃない。自分もだ。
それでも未成年だったのも、環境も加味されて結局爵位を下げられるのと、二年保護観察の元で問題を起こさないよう監視される事だけになった。
かなり甘いと思ったけどそれが公平に下された判決なら、と受け入れる事にした。
それから私は知った。
父は今の母をただ愛していたと。二人目の母はそれはもう美しい人だ。この世のどんな美しいものでも彼女の前ではかすむくらい。
そんな彼女を愛した父は彼女の為に身分と金を手にすると……私の実の母をだました。
どうしてそうなるんだ。としか思えない。本当に私にもあの人の血が流れているのか? 発想が理解出来ない。
そしてそれを受け入れ、煌びやかな生活を甘受していた継母は不正には無関係で単純に刑期を真面目にこなせばいい事になった。
妹は修道院に入る事になる。ふざけるな! と殴り掛かけた時、それにおびえ、自分が何をしていたか……と少し目を覚ましたらしい。ある意味環境の被害者だった美しい妹。私の事を見下して、殴っていいと言われなければ何かが違っていたのかもしれない。でもそれはもうなかった世界だ。
ただもう私に関わらなければそれでいい。
私は家族に関して願ったのは二度と顔を合わせないこと。謝罪も何も届けないこと。それだけだ。
謝られても許す気はない。それをやられるといつか許さないといけないくなりそうだし受け取れる程大人でもない。
そして父は……
やって来た事があまりに非道すぎる。更生の余地もなく、重い刑が科される事になりそうだと聞いた。
愛した女にも今回の事で見捨てられることになる。そう聞いてもなんだかそうか、としか思えなくなっている。
私の二度目の小さな願い。それがもって行った記憶で残っていた愛情が消えたおかげか色々な物がすっきりしてくれていた。
記憶を失うのは大きなことだけれど、それが失くしたくてもなくせれなかったものだったから。優しかった頃の記憶にすがっていた事実。それは確かに大事だったから対価になった。
それでも、大事だったけど失くして楽になるものでもあった――。
私が願えば家族の刑が更に重くも、逆に軽くも出来るかもしれない。
そう言われたけど私は首を振った。
「公正に裁判で決められた結果ならそれでいいです」
その一言で終わらせた。
あの三日。その間に出会った人たち。
かけて貰った言葉。泣きたくなるような優しさ。そして……願い。
私はそれを受け取るにふさわしい自分でいたかった。
復讐する権利はあると思う。一発くらい殴っても許されると知っている。
でも、やらない。
未来の幸せを願ってくれた優しい人の言葉を思い返すと踏みとどまれる。
殴って同じになりたくない。恨みに囚われて人生を食いつぶしたくない。
自分が選ぶ選択は、もう自分の未来を望むものだけでいいんだ。
裁判もつつがなく終わろうとしていた時。
一つ事件が起きた。
父が逃亡を図った――
私は急いで飛び出した。あの人が、父が誰かを傷つけるくらいなら。
それは自分が今度こそ止めないと。誰かが傷つくくらいなら、自分が――
そんな思いもあった。
父は逃亡にかなり練った完璧に近い計画を立てていた。
無策でなかった。
それでも……私と目が合って―――
何一つ言葉を交わさず、何もされる間もなく。
なぜかあっさり捕まった……。
後日話を聞いてみた。何がどうしてどうなったのか。
あの時父の逃亡ルートに人は来ないようなっていた。
父が私に何かをしようとしたのかはわからない。
ただ、その時警備の人がそっちに行くべきだ、と何故か感じて集まったと聞いた。
「もう、本当寿命が縮まると思ったわよ、クラヴィーアちゃん。あの男が逃亡したら逆恨みの報復されちゃうんじゃないかってそこも怖かったけど、飛び出しちゃ駄目よ!」
叔母さんに怒られた。
素直に謝った。
でも頭の中には『願い』という言葉が占めていた。
父が逃亡して、私に害意を向ければそれは平穏とは言えない。
誰かを傷つけるかも、と明るい気持ちになれることもなかった。
つまりはそういう事だ。
「……守って……貰ってしまったな――」

涙があふれる。止まらない。
あの時、私はあれ以上家族の事で願わなかった。願って貰った未来があるのならそれ以上は自分が頑張る事だと思ったから。
例えそれがいつかの未来でも、それを支えに戦うつもりだった。
悔やむような顔をしたあの人の目の前であれ以上大きな願いは出来なかった。
(どうしても、だった小さな願いだけはまぁ、許してほしい)
これだけの事が起きるんだ。叶った願いというのは。
胸が痛い。苦しい。
どれだけのものを失った? どれだけの―――
それなのに、今嬉しいと感じている自分が大概だ。
私はあの時、願ってくれた。それ以上に――……あの時の言葉が嬉しかったんだ。
人が、貴族が嫌いと言ったその口で……貴族の私に……捨てた物じゃないと、思って貰えた。私と言う人間を信じて貰えた。
何を言っても通じなかった。届かなかった。信じて貰えなかった長い時間。
私は自分と言う人間がひどくちっぽけに思えて、苦しくて、苦しくて。
それだけのものを捨てても、私が十分な理由になると――言って貰えた。
心が強く震えた。掴まれた。どうしようもない位惹かれた。
私は今、その理由にたりえているだろうか。
たった少しの時間の関係性でも、私が三年……ううん、これからの人生全てかけて相手が見たいと望んでもらえた自分でいようと、恋をし続けたいと思うのにそれで十分すぎる理由だったんだ――。
失わせてごめんなさい、願ってくれたのに怒ってごめんなさい
伝えたい事は山のようにある。
月の下、歩みは決して止めない。
何から話そうか。最初に言うべきことはわかってる。
いつかあなたに伝えたい。
何も手に出来ない筈だった私の願いに実をつけてくれたのは、あなただったという事を――